ご由緒

神話と大自然に彩られた霊峰

 峰は ゆづるはの峯  阿弥陀の峯 弥髙の峯  (枕の草子 十二段)

 自然崇拝、山岳信仰に始まったといわれる諭鶴羽信仰。くにうみ信仰、修験道の聖地として称えられてきました。特に平安修験以降その隆盛をほこりました。山一帯、二十八宇の大伽藍が建ち並び、『社殿は甍に甍を並べ、朱塗りの高殿は軒に軒を連ね』と形容されたほどでした。その交流の範囲も、南淡路を中心として四国、近畿をはじめ、中国、九州にまで及んでいたといわれます。神社境内地から発掘される古瓦や土器、古銭、板碑等が静かに往古の賑わいを物語っています。枕草子には、『峰は ゆづるはの峯 阿弥陀の峯 弥髙の峯』と謳われ、長寛勘文(1163~4年記)には熊野御垂迹縁起を引用し、熊野の神は、この諭鶴羽山から渡っていかれたと書かれています。

境内社殿等ご案内

本社(本殿、幣殿、拝殿) 

頂上社(諭鶴羽山山頂)

奥ノ院 篠山神社

奥宮 十二所神社

摂社 水神社  

摂社 厳島神社

摂社 神倉神社

平和祈念塔(山ぼうしの広場)

天の浮橋遥拝所

さざれ石

 

本社(本殿)

 伊弉冊尊

 事解之男尊

 速玉之男尊

母なる神様、伊弉冊尊を主祭神にお祀りする

 

頂上社

 諭鶴羽大神

 八天狗

イザナギ、イザナミの命が鶴羽に乗り給いここのカヤの大樹に舞い降りられた処

 

奥ノ院(篠山神社)

 伊弉諾尊

 伊弉冊尊

 大地主尊

諭鶴羽山縁起に伝わる古いお社 元の諭鶴羽神社

 

 

奥宮(十二所神社)

 伊弉冊尊

 胎蔵界大日如来

 金剛界大日如来

後の平和な世に望みを託して再興を祈願した所

 

水 神社(水神様)

 彌都波之女尊

水を司る水神様をお祀する

水は、飲み水として、農業用水として一番大切な生命の源そのものといえます

 

厳島神社

 市杵島姫ノ神

もと広島県の宮島で、後に平家の守り神として、諭鶴羽神社では、海の神様としてお祀りする

 

 さざれ石

ご由緒 

 古く『国生み神話』で知られた、伊弉諾尊、伊弉冊尊さまを奥ノ院にお祀りし、本社には、伊弉冊尊を主神に、速玉之男尊、事解之男尊の三柱の神様をお祀りしている。

 神代の昔、夫神の伊弉諾尊さまと共に、はじめて夫婦の道をひらき給い、日本の国土を修理固成(つくりかためな)され、多くの神々を生み給うた『母なる神様』である。古来、五穀豊穣、水源守護の神であり、日本の産業の振興の神様として、また縁結び安産、夫婦和合、家内安全の神様として広く崇敬され、源平の昔からお宮の灯りは燈台がわり、古道には道中の安全を見守るお地蔵さまが、海陸交通安全の神様である。

 

 社伝によると、およそ

2150年の昔第九代開化天皇の御代に伊弉諾、伊弉冊の二柱の神様が鶴の羽に乗り給い、高天原に遊びたもうた。狩人が鶴の舞い遊ぶのを見て、矢を放つ。羽に矢を負った鶴は、そのまま東の方の峰に飛んでかくれた。狩人その跡を追って頂上に至るとカヤの大樹があり、その梢にかたじけなくも日光月光と示現したまい

『我は、伊弉諾、伊弉冊である。

 国家安全・五穀豊穣成就を守るためこの山に

 留まるなり。

 これよりは、諭鶴羽権現と号す。』

と唱えたまうた。狩人、涙を流し前非を悔い、その罪を謝し奉り、弓矢を捨てその地を清め大工を招き一社を建て神体を勧請し奉る。狩人、権現の社を受領して庄司太夫と号し一生神に仕えたりという。

 

 また、別に西天竺の霊神が第十代崇神天皇の御代に五つの剣を東に向かって投げられ、

 『我が縁のある地に留まれ』

と誓い給うた。

 一は、紀伊国、熊野三山に

 一は、下野国、日光山に

 一は、出羽国、羽黒山に

 一は、豊前国、英彦山に、そして、

 一は、淡路国、諭鶴羽山に、留まったと伝えられる。

 

 また、熊野権現御垂迹縁起によるとその昔、

甲寅の年、唐の天台山の霊神が、

九州筑紫国、英彦山の峰にご降臨され

戊午の年、伊予国、石槌の峰に渡られ

甲子の年、淡路国、諭鶴羽の峰に渡られた後、

庚午の年、熊野新宮、神蔵の峰に渡られた云々・・・

                 と伝えられる。

 

 ともあれ、その創建は遠い昔のことであり、自然崇拝、山岳信仰に始まり平安時代に修験道が盛んになるにつれ、この山も前記の山々と共に神仏習合体としておおいに繁盛、山一帯に二十八宇の大伽藍を建て、熊野権現と並んで修験の霊場として栄え熊野権現元宮、熊野本宮と称えられた。

 その、御神威は京の貴族社会にまで知られていた。

  『峰は ゆづるはの峯

       阿弥陀の峯

        弥高の峯

    枕草子 第十二段 

 惜しいことには、五百有余年前(康正二年)戦乱のため兵火にかかり全山焼亡。天文年間に美作城主(岡山県)の助力を得て十八宇を再興したが又々、天文十八年六月九日兵火にかかり(石川紀伊守の乱)焼亡衰微した。

 乱世の世の中にあってはもはや再興の望みなきにより、

のちの平和な世に望みをたくして、美作住人乗蔵らが再興祈願および再興の資料として各社堂、神仏を碑石に刻して後世に残したるものが奥宮十二所神社に安置してある天文二十一年銘の碑石群である。

 天正九年十一月二十一日豊臣秀吉当社に参拝し、承応年間に藩主蜂須賀公が平癒祈願、徳島城鬼門鎮護のため、本殿、拝殿、末社二社を再建された。また、本殿横西側に、神仙寺観音堂も合わせ祀られていたが、明治初年の神仏分離令で山下の灘黒岩に遷された。